山猿時代、研究員時代を経て、ファッションの道へ

ーー内海さんのこれまでの人生について教えてください。子供の頃はどんなお子さんだったのですか。

まるで山猿のような子供でした。兄や弟とはしょっちゅう取っ組み合いの喧嘩をしていましたし、毎日のように近所の野山を駆け回って遊んでいました。可愛い子やオシャレな子に憧れはありましたが、なにせ自分は山猿なので、自分自身がオシャレをするという意識は全くありませんでした。

ーー山猿とは!現在の内海さんからはとても想像できないです。いつ頃からファッションに興味を持つようになったのですか。

今でもスノーボードや海に行くと山猿時代の自分に戻りますよ(笑)。ファッションに興味を持ったのは大学生の頃です。厳しかった親元を離れ、アルバイトを始めて自由なお金を持てるようになったこともあり、親の目を気にせずオシャレをとことん楽しむようになりました。また、スノーボードとの出会いも大きかったです。勉強にしても、スポーツにしても、恋愛にしても、全てが中途半端で自分に自信がなかった私が、スノーボードを始めて3年目で競技会の表彰台に上がっちゃたんですね。まあ、女子の競技人口が少なかったからできたことなんですけどね。この経験によって「私でもやればできるんだ!」と、以前より自信が持てるようになりました。

ーー大学は理工学部だったんですよね。大学卒業後はどんなお仕事をしていたのですか。

新卒でセラミックの研究所に就職しました。学生時代はスノーボードに熱中していて将来のことなど真面目に考えていなかったので、教授推薦でサクッと就職先を決めてしまいました。ところが、入社から3ヶ月経った時に「え、私これを一生やっていくの!?」と突如不安に襲われて。ようやくそのタイミングで自分の人生について真剣に考え始めました。「一生やっていきたい好きなことは何だろう?」と自問自答した末に、大好きなファッションだと確信しました。そこから、日中は研究所で働いて夜間はファッション専門学校に通うという生活を2年続けました。

ーー仕事と学校の両立ということですか。

はい、あの頃は仕事以外の時間を全てファッションの勉強につぎ込んでいました。人生で一番集中して勉強した時代でもあります。当時合格率5%以下のカラーコーディネータ検定1級も取得しました。そのタイミングで遠距離恋愛をしていた彼と結婚することになり、研究所を辞め、結婚して東京に移り、外資系ファッションブランドに就職することも決まりました。ようやく薔薇色の人生が始まった!と思いました(笑)。

大好きなファッションと
人間としての成長

ーー外資系アパレルブランドに6年いらしたそうで。こちらではどんなお仕事をされていたのですか。

日本への仕入れを行うマーチャンダイザーアシスタントとして入社しました。マーチャンダイザーはブランドの司令塔のような役割で、商品構成や価格の決定、販売方法やサービスの立案など戦略的に行っていく仕事です。ここでは、データを論理的に展開していく前職の研究員の経験がとても役立ちました。その後、自ら営業部への異動を希望し、営業へポジションチェンジをしました。研究職時代とは全く違ったキラキラとした世界の中、自分のやりたいことがどんどん叶っていき、勢いだけで突っ走っていました。あの頃は、人の気持ちが分からない野獣のような時代でもありました。 

ーー野獣ですか!詳しく教えてください。

私の「人となり」が整っていなかったんです。自分より経験も年齢も上の店長さんたちと一緒に仕事をしていくのに、経験の浅い私が「売上を上げるために一緒にやっていきましょう!」と言ったところで、正直面白くはないですよね。相手の気持ちに気付けずにガツガツと勢いだけで進めてしまっていたので、ある日シーズン途中で急に店長さんが辞めてしまいました。

営業部の上司は全てを見抜いていたんでしょうね。「シーズン途中で新たに店長を補充することもできないし、あなたが店長を兼務しなさい」と言われ、営業兼店長の日々が始まりました。

ーー相当ハードだったのではないですか。

ハードでしたが、貴重な経験でした。販売をガッツリ経験できたことも大きかったですし、人と向き合うという点でも成長させてもらえたと思っています。無我夢中で頑張っていたら、「あなたも大変だよね」と徐々に店舗のお姉さんたちが認めてくれて、一緒になって店舗を盛り上げてくれるようになっていったんです。「あなたの頑張る姿を見て私たちも変われた」と言ってもらえた時は感無量でした。気付けばその年のコートフェアで売上日本一になっていました。

夢が叶ってファッションの仕事に就き、多くの学びもあり、とにかく幸せな時代でした。でも、そんな日々は長くは続きませんでした。夫の仙台への転勤が決まったんです。

薔薇色時代から、人生を模索する毎日へ

ーー東京を離れることになったんですね。

そうなんです。「薔薇色な毎日だったのに!」と思いながらも、東京に残って一人で生きていけるほど自分は強くないことを知っていたので、泣く泣く仙台に移ることを決心しました。エネルギーが有り余る日々に嫌気が刺して、「あなたはいいわよね!私は大事な仕事を辞めてきたんだから!」と夫に言ってしまったこともありました。その時にふと、「起業」というキーワードが頭に浮かびました。このエネルギーを、自分の得意なことや好きなことに活かしたいと思ったんです。早速、カラーコーディネータ検定試験の講師や、ブライダルフェアでパーソナルカラー診断など、「ちょびっと起業」を始めました。起業をして少し経った頃には、百貨店でのファッショントークショーの仕事も舞い込んできました。

ーーファッショントークショーですか!どのような経緯で依頼が来たのですか。

東京で仕事をしていた頃から面識があった百貨店のバイヤーさんからの依頼でした。トークショーでは今年のファッショントレンドやトレンドカラーについて話し、「お似合いになる色を選びます!」と言って会場内にいらしたお客様のパーソナルカラー診断を行いました。

その帰り道、ふとこんな直感が降りてきたんです。「新天地でひとり人脈もないまま日々奮闘しているけれど、まだまだ学びたいことがたくさんある。このエネルギーを組織内で活かした方が良くない?」というものでした。


ーー再び組織に属すという考えが浮かんだのですか。

そうなんですよ。日々、孤軍奮闘しながらエネルギーを放出するのではなく、組織の中でエネルギーを回すようなイメージが湧いたんです。早速、仙台に拠点を構えるアパレル企業を調べ、履歴書と職務経歴書を送りました。

応募直後に採用担当から電話がかかってきたのですが、その内容に仰天しました。「支社長が先週あなたに会っているんですよ!百貨店でのトークショーで!」とおっしゃるのです。たまたま支社長が百貨店の売り場を視察に来ていて、私のトークショーを見つけ足を止めてくれたようでした。その後、役員面接やプレゼン審査を通過し、商品仕入れや店舗開発、人財教育を担当する総合職として働くことが決まりました。しかも、支社での総合職の中途採用は後にも先にも前例がなく、ちょうど東京へ異動になった女性総合職の方がいたため、枠が空いたタイミングだったそうです。

ーーなんという偶然でしょう。そこから、新しい仕事が始まったわけですね。

はい。この会社では総合職としてあらゆる経験をさせてもらいました。研修に携わった経験も今に繋がっています。新入社員の研修を行っていた頃に衝撃を受けたのは、新入社員の約半数が「本当にやりたい仕事ではない」ということでした。率直に、もったいないなあと感じました。好きではない仕事をしていた研究所時代の自分と重なったのです。「やりたいことをやる」。このことがどれほど人生に影響を及ぼすのかということを、私自身、身を以て知っていたので。


ーー会社員から独立に至った理由を教えてください。

37歳の時に出産して1年育休をもらって復帰したのですが、復帰前と同じポジションだったこともあり、乳飲み子を残しての宿泊出張など公私ともにハードな毎日を過ごしていました。近所に頼れる両親もおらず、夫婦二人で子育てする中で、夫がイクメンを通り越しパパとママを掛け合わせた「パマ」のような存在になっていました(笑)。大好きな仕事をやっている喜びはあるけれど、せっかく授かった我が子とも向き合って生きていきたい。このままでいいのかな・・・とモヤモヤした気持ちは消えませんでした。命を活かすのではなく、削っているような感覚になっていたのです。

そんな最中、会社で仕事をしている時こんな直感がおりてきたんです。「来年の春はここにはいない」。さすがにこの直感が降りてきた時は「会社を辞めてどうするの!?」と違和感しかありませんでした。しかし、直感に従い、通算18年続いたサラリーマン生活ラストイヤーを過ごそうと思った矢先に、大学関係者から「これまでやってこられたファッションビジネスについて大学で教鞭をとっていただけませんか?」とお声がけをいただきました。以前新入社員研修を担当していた時に感じた、「職業選択前の学生に仕事の素晴らしさ、やりたいことをやることの素晴らしさを伝えたい」という思いが、想像もしなかった形で叶うことになったのです。